父濱保光男と母稲本好子の生涯

5/1/2023新版

濱保家・稲本家の家族の歴史

⑴ 昨年(2022年)は父濱保光男の五十回忌だったので、筆者濱保泰介は五十回忌の法要を企画して、母好子の命日の6月26日に堺へ墓参りに訪れて、超元寺へ相談に伺ったが、丁度その時には、寺院の二階の改修工事中で、寺院には住職も家族も居合わせなかったので、結局実現に至らなかった。弟の濱保晃夫の意見だと三十三回忌が弔い上げの法事だったので、特に実施するまでもないということである。
 
⑵ そんな時に、暮れも近い11月になって、それまで連絡がまったく取れなかった末弟の濱保英樹が泰介のホームページ(検索⇒濱保泰介)を探し出してくれて泰介にメールを送って来たので、それからは兄弟間の連絡が取れるようになったのだが、これは父光男の五十回忌に父が起こした奇跡かも知れない。
 
⑶ そこで、父光男の生涯と家族が体験した思い出を記しておこうと思うようになった。濱保家の子孫たちにとっても、父光男と母好子の過去を振り返って見る良い機会になるだろう。
 
⑷ これらの事実は、飽くまで泰介が見聞きした事実であり、同時に同じ体験をしても異なる人間では感じた事実が異なるように、泰介と晃夫や壽之では覚えている事実が異なるものであり、これが唯一の正しい事実という訳ではない。従って、晃夫や壽之が書けばまた違う思い出になるのだが、それは已むを得ないことであってその異なる事実を洞察することによってより真実に近付くものである。
 
⑸ 光男と好子の生涯を語るには、府中濱保家と堺稲本家の由来と家族の歴史を語らなければならない。泰介は濱保戸籍であるが、実質は濱保・稲本家であるので両家について等分に語らねばならないが、母好子が早く亡くなったこともあって母から聞いた稲本家の情報は十分ではないし泰介の間違った記憶もあるだろう。

⑹ 府中濱保家の由来は、明治29年以前の旧濱保家とそれ以降の新濱保家に分かれる。新濱保家の祖先は松村家であり旧濱保家の祖先は松村家ではない。従って濱保家の由来を知るには松村家の由来を知らねばならない。言い伝えによれば九世紀に菅原道真公に仕えた家人であった松村家の祖先が、菅公の太宰府配流に随伴し京を発ち淀川を下る舟に乗り瀬戸内海を西に向かう途中に鞆の津で下船し備後の松永在に居住したが、その後天保年間になって戸主松村安兵衛は理由は分からないが母と姉及び妻チカと娘サキを連れて石見銀山街道の要衝の地であった備後国府の府中に移転し芦品郡出口町に居住した。安政元年に生を受けた長男松村政太郎は二男三女を儲けたが、明治22年に生を受けた次男栄三郎は父の後妻の芦品郡府中町濱保マツの養子となり絶家になっていた濱保家を再興して明治29年に新濱保家戸主となった(※栄三郎が濱保家の戸主になったのには当時の家制度で戸主には兵役は課されなかったからである)。松村政太郎長男竹次郎は屯田兵として北海道に赴任し後に北広島市に居住して材木商を営んだが現在連絡が取れない。新濱保家戸主となった栄三郎は学童期に地元の頼山陽門下の学者に漢籍を学び、その後に生業として屋号東屋にて果実卸業、ラムネ飲料製造卸業、柿の渋抜き製造、五右衛門風呂のプレキャスト工法、氷菓製造販売業など多彩な事業を次々と行って特許申請も行うなど実行力とアイデアに優れた人物であった。
 
⑺ 中でも自家製アイスクリームは、地元の府中では祖父の東屋を知らない人はいないほど有名で、栄三郎夫婦と娘二人、後の和子夫婦の家族全員の力で早朝から夜遅くまで働いて作っても作っても直ぐに売れてしまうほど評判だった。このため大阪に住む孫の泰介は高校生になってからは毎年夏休みに府中に手伝いに来た。製造したのはバニラアイスクリームとアイスキャンディーのみで、アイスキャンディーはミルクとあずきの二種類だった。この製造のために、祖母のアキは毎朝三時に起床して竈に火を付けて熱湯を沸かすことから一日が始まった。豊かできれいな広島の地下水を機械で一日中汲み出して使用したが、原料には練乳、砂糖、こしあん、粒あん、エッセンスを使用して、これらの原材料を祖母が独自レシピに基づいて一旦大鍋で沸騰させてそれを地下水で冷やしてから、アイスキャンデーは銅製の金型に二本ずつ手で流し入れてそれを二十本ずつまとめた木製のケースで冷凍液に浸けて固まらせた上でそれをまた二本ずつ手で流水に浸けながら引き抜いて一本一本手でビニール袋に入れてから店頭の冷凍庫に保管して販売した。アイスクリームは丸い銅製の寸胴に入れてそれを冷凍水の中で機械で回転させて固まらせてから最後は人の手で竹べらを使ってかき混ぜながら完成させたが、正に自家による手製であった。竈、台所、便所は奥の部屋にあったが換気もエアコンも無い暑い部屋の中で一日中火を焚いて原液を作るのは祖母と叔母の役目で殺人的な重労働だった。祖父の店に入ると一日中地下水を汲み出して冷凍液を循環させる機械音が絶えずリズム良く聞こえていたが、お店の閉店時にはその音が止まってまったく静寂な世界になったのがむしろ不思議に思えた。このようにして一年のうち四ヶ月間はアイスクリーム製造で明け暮れたのであった(※その後に祖父母は北野田の宇一宅に来て三ヶ月ほど身体を休めてのんびり暮らすのが楽しみだった)。栄三郎が自家製アイスクリーム製造を当時どのようにして始めるようになったのか、またレシピは誰がどのように作ったのかは不明だが、この自家製アイスクリーム事業は当時ではまだ珍しかったので大変繁盛した。その事業は今では、他家に嫁した孫の順子によって受け継がれて祖父と同じ東屋の屋号で営まれており、地元府中の道の駅や東京の府中市アンテナショップでも販売されているほかネット販売も展開している。

⑻ 堺や神戸に住む栄三郎の孫たちは、小学生の頃から夏休みには府中に家族でやって来ては川原町の屋敷に泊まって府中の豊かな自然の中で田舎暮らしを楽しんだ。孫たちは毎日、付近の田んぼや川に出掛けてはトンボや蝶々(※トンボはオニヤンマ、ギンヤンマ、シオカラトンボ、赤トンボ、ハグロトンボ、イトトンボなど、蝶蝶はアゲハ、クロアゲハ、モンシロチョウ、モンキチョウ、シジミチョウ、ミスジチョウ、ジャノメチョウ、コムラサキなど)を捕ったり府中高校の裏山に登って蝉や玉虫(※蝉はクマゼミ、アブラゼミ、ヒグラシ、ミンミンゼミ、ツクツクボウシ、ニイニイゼミなど、タマムシのほかはカブトムシ、クワガタムシ、カミキリムシなど)を捕ったり芦田川に行って泳いだり魚釣り(※川魚はオイカワが多かった)をして遊んだ。祖父栄三郎は孫たちを大変愛しんでいたので毎年府中の実家に呼んでまるで夏期合宿のように朝から晩まで寝食を共にさせて遊ばせたので従兄弟たちは兄弟のように育った(※濱保家と稲本家の従兄弟たちは仲の良い従兄弟だが隣同士に住んでいても兄弟のようには育たないものだ)。また、私たち孫の心の中に美しい自然が宿っているならそれは祖父のお陰で大変感謝しても感謝し切れない。

⑼ 昭和の初めに、濱保家の戸主栄三郎は知人から頼まれた連帯保証人を引き受けた為に破産するに至り土地も工場もすべて失って夜逃げ同然で明け渡した。
 
⑽ 栄三郎の家計は困窮したので、長男宇一と次男光男兄弟は中学の学業を続けることが困難になったが、兄弟姉妹の中でも一番頭が良かった宇一は地元の篤志家の支援で尾道商業に進むことが出来たが、実家を経済的に支えるために中退して篤志家の口利きで大阪の三木産業㈱に入社して丁稚奉公から勤めて実家に仕送りしたが、その時に社長の赤ん坊(※後の三木社長)を背中に背負ってあやしながら働いたことがあったと聞く。その後宇一は陸軍に召集されたが、当時難関であった倍率40倍の陸軍通信士試験に合格して(※何故難関だったかと言うと新兵と同じ訓練や日課を果たしながらそれとは別に勉強しなければならなかったからであった)通信兵となったので戦闘に繰り出されることなく生きて復員することが出来た。宇一は、祖父栄三郎のリアリズムの遺伝子を受け継いで(※祖父の遺伝子という点では、長男宇一と長女元子はリアリズムの傾向が強かったが、次男光男はロマン主義者で、次女和子は何の思想も無かった)鋭利な頭脳の持ち主であったので皇国を尊ぶ思想はあるものの人間が殺し合う愚かな戦争は馬鹿らしくて避けたいと思う気持ちが強かった(※祖父栄三郎も戸主制度により兵役を免れた)。
 
⑾ 宇一は、終戦後に中国大陸から日本に帰国するとき、当時帰国船が着く港では船待ちする日本人がいっぱい溢れていたが、日本の敗戦で治安が悪く日本人や婦女子を狙う不埒な朝鮮人がいっぱい居た。そのときに宇一はある一人の看護婦から日本に連れて帰って欲しいと頼まれて、思案の末に宇一は自分の妻ということにしていっしょに船に乗せて無事に日本に着いて実家のある九州まで満員列車に乗って送り届けた。そのときに宇一は金を腹に巻いた晒しの中に入れて、それを切って渡しては難所を幾つも切り抜けた。復員後は再び三木産業に復職した。

⑿ 宇一は、後に福山の貿易商小川福松の長女美恵子と結婚して大阪市田辺で所帯を持ったが、その後に堺市北野田に戸建て住宅を新築して転居した。三木産業は阿波藩三木家の家門企業であったので大企業であっても株式上場することなく役員はすべて家門の人間が占めるが、宇一は営業部長から専務取締役となり外部雇用者としての最高位に出世して平成19年永眠した。宇一伯父も府中の祖父にも劣らず、堺、神戸、府中の甥と姪を学校の休み中に北野田の家に呼んで何日も泊まらせてその間の食事も食べさせてくれた(※稲本の治朗ちゃんも一度来たことがある)。当時の北野田には旧堺市街地では望めない豊かな自然が残っていたので、子どもたちは毎日外に飛び出しては、夏休みには魚やザリガニ、蝉やトンボやカブトムシを獲ったり、正月には近くの田圃で凧揚げして遊んだりした。北野田の周りにあった溜め池にはフナやモロコやタナゴが生息していたので泰介は学友を連れて魚釣りに来たこともある。北野田で子どもたちが自然に親しめたのは宇一伯父のお陰である。また、泰介は小学生の時に錦之町から友人と共に自転車で北野田までサイクリングしていきなり家に行って美恵子伯母を驚かせたことがあるが、美恵子伯母はどんな場合にも嫌な顔はしたことがなかった。こんな甥の勝手な「襲来」を受けても許して迎えてくれて寝食の世話もしてくれた美恵子伯母の優しさと寛容さには感謝しても感謝しきれない。親たちは子どもを北野田に預けたら家に帰ってしまったので、美恵子伯母はまるで保母の代わりをしてくれたのである。いくら親戚同士が仲が良いと言ってもこういう恩恵は得難いことであるが、それには宇一伯父には子どもが居なかったこともあった。宇一伯父は子が授からなかった為に、宇一が亡くなる前の病院で光男の三男壽之を養子入籍したので同時に松村家・濱保家の祭祀権も相続したことになるが、不幸にして壽之は病のために酸素ボンベを手放せない状態であるし、その子息に期待するのも気の毒であるので問題は残ってしまった。

⒀ 栄三郎の次男光男は、大正11年に広島県府中市に生まれた。実家が破産して家計の困窮時ではあったが、家族全員の結束した支援と光男も早朝の新聞配達のアルバイトをしながら府中中学校の学業に打ち込み、優等の成績で中学の五年課程を飛び級して四年で卒業して、旧制広島高校(現広島大学)の入学試験に合格して進学し、その後旧制九州帝国大学工学部応用化学科に入学した。
 
⒁ 光男は、中学時に新聞配達のアルバイトで学費を稼ぎながら卒業したが、貯めた貯金で祖父栄三郎に仕事用の自転車を買ってあげた。祖父はこれを大変喜んで、ずっと死ぬまで大事に使っていた。また、祖父は1945年の夏期休暇で帰省中の光男に福山まで物資の買い出しを頼んだが、その八月八日の夜に福山大空襲があって市民が焼き殺され焼け野原になった。祖父は光男も犠牲になったものと思い込んで遺体を引き取るために大八車にゴザを積んで府中から福山へ向かって歩いていた時に福山近くの峠で向こうからやって来る光男とばったり出会ったのだった。
 
⒂ 光男は、大学卒業後に大阪市の参天堂製薬株式会社に就職したが、その後昭和27年に大阪市都島区に光華化学工業株式会社を設立して独立したのだが、折角就職した会社を退職したのには経緯があって、晃夫が聞いた話では、参天堂側の経営事情で退職しなくてはならなくなって、やむなく化学工場の経営に踏み出したらしい。そういう事情があって、参天製薬の藤田氏はその後も何かと家族の面倒(光男の死後にも泰介の就職を心配してくれた)を見てくれた。
 
⒃ 光男は、就職後に長兄宇一が勤める三木産業の重役だった稲本榮治(旧制大阪商大~現大阪市大卒業)の次女好子(旧制大阪府立女子専門学校専科~現大阪公立大学卒)と昭和24年に結婚し稲本家の敷地内の貸家を借りていたクリーニング屋が転居した空き家を改修して住むようになった。
 
⒄ 光男の妻好子は、昭和40年に満39歳にて永眠した。その六年後に光男は九州大学の知人の紹介で昭和46年に延岡の旭化成役員室に勤務する有竹小枝の四女黎子と再婚したが、その後二年半に満たずに故郷府中に錦を飾る志の半ばにして昭和48年に51歳にて永眠。翌年には光男の死に落胆した祖父栄三郎と祖母アキが相次いで永眠。その18年後の平成3年には後妻黎子が病にて永眠した。

⒅ 稲本家の家作に居住していた光男・好子の息子達は母好子の死去により、長男泰介は高校一年時に北野田の宇一夫婦を頼って生活の庇護を受けるため転出。次男晃夫は中学・高校時代は母方の稲本家の支援を受けていたが滋賀大学入学後に県外に転出。濱保三兄弟の生家であった稲本家の居宅に残ったのは父光男と三男壽之のみとなったが、父光男の再婚によって近くの宿屋町の貸家に転居した。
 
⒆ 栄三郎の長女元子は、次男光男の大学時代の学友高田荘平に嫁し神戸市灘区の義理の父の地所内に新居を建てて所帯を持った。この出会いにはエピソードがあって、光男は大学の卒業も迫った戦争末期に授業を休んで故郷の府中に帰って、食料物資を隠匿して市民に配給しない府中市長の排斥運動の先頭に立っていたのだが、光男の卒業単位を心配した主任教授が学友の高田荘平に光男を大学に呼び戻すために府中に行かせたのである。そのときに高田荘平が府中の光男の家を探して歩いているときに、たまたま道路で出会った女性に声を掛けて聞いたのが偶然に光男の妹で後に結婚する元子であった。また高田荘平叔父は大学卒業後に鹿児島大学の教員の内定を得ていたが元子叔母がそんな遠方は嫌だと言って渋ったために叔父はこの話を断って就職はお流れになってしまった。叔父の高田荘平は地元の灘中学(現灘高校)から旧制松江高校、九州帝国大学に進んだ秀才で理科系の学問に長けていたが商才はなかったので大学教授職が最も向いていたのだが、婚約者が気に入らないなら断って民間企業に就職するほどの優しい人であった。この高田荘平叔父も平成21年に亡くなり、元子叔母も令和2年に永眠した。泰介は宇一伯父が亡くなってから元子叔母が亡くなるまでの13年間に合計26回に亘って神戸の灘の家に元子叔母を訪ねたが、その目的は宇一伯父が居なくなって濱保家の歴史を語れるのは元子叔母だけになったからである。一回の訪問で二日、三日になることもあるし一日に数時間要するので合計で数十時間に及んだが、その記録はメモに取ってある。親子でも家族の歴史を長時間に亘って語り継ぐ機会は珍しいことであるが丁度言い残しておきたい人と聞いておきたい人のタイミングが一致したのだろう。元子叔母が寝ている布団の横に泰介が座布団を枕にして横になりながら深夜まで語り合った二人だけの時間を懐かしく想い出す。そのときに元子叔母から授かった濱保家の金言は、泰介がセブ島で国際交流をやっていることに対して、やりたいことが有ったら祖父や伯父がやったように先ず金を貯めろと言うものだった。この言葉はリアリストで経済観念がある元子叔母にして言える金言だった。また泰介がそもそもセブ島で日本人移住を企画したのは、心臓病の美恵子伯母のために年中暖かい南国で安全な移住先を探す目的だったが、泰介が元子叔母に一度楽園のセブ島に連れて行くと誘ったら、叔母は泰介にあっかんべーして見せて、絶対に嫌や、叔母には灘の家が一番の楽園だと言って聞かなかった思い出がある。またあるときに、元子叔母に対して妹の和子叔母と姉妹でいっしょにグループホームのようにして住まないかと提案したら、叔母は絶対に和子とは嫌や、和子は姉の自分に頼る気持ちが強すぎるから一緒には住みたくないと言ったのだった。泰介はこのセブ島移住もグループホームも何度も提案したが元子叔母は頑として絶対自分の主張を譲らなかった。元子叔母にとっては荘平叔父と所帯を持って共に暮らした灘の家が小さくとも一番の心の故郷なので他所には梃子でも動かないと言い張った。
 
⒇ 栄三郎の次女和子は、大石家から婿養子に入った剛が平成4年に府中家具の工場で仕事中に事故に遭いそれが元で永眠し頼りにしていた伴侶を亡くした。和子は長く祖父母の生活を支えて来たことによって府中本町(※後に計画道路により西町に移転)に在った濱保家の土地建物を相続した。それと光男名義だった川原町の土地建物も、後に光男の相続人の泰介と晃夫が宇一・和子に1/2ずつの共有で土地建物総額150万円で売買譲渡し(※実際は宇一が全額負担した)、更に宇一は自己所有分を和子の次女の順子にやがて濱保家を継ぐ者として贈与した。これらは和子が濱保家を継ぐことを前提とした行為であったが、和子は祖父母の法事をこれまでに一度も行わなかったばかりか、長女知子と次女順子にも濱保家の由来や親兄弟のことを何も伝えず濱保家を継がせる意思がなかった。そして二人の娘とも嫁に出してしまったので(※宇一は和子に跡取りの約束を破った事で激怒したが、和子は自分が入り婿を迎えた経験から娘に同じ体験をさせたくなかったのであろう)二人の娘から生まれた孫たちは濱保家の子孫であるにも関わらず、濱保家の記憶すら全く持っていない。元来栄三郎の次女の和子は長女の元子のように他家に嫁して出て行きたい願望が強かったのだが(※和子は何でも姉の元子のすることを自分もしてみたいという羨望の気持ちが強かったので、自分だけが我慢しなければならないことに不満だった)その願望は自分の代でなく娘の代で果たせたのであった。その計画をやり終えた後に府中濱保家にただ一人残った和子は令和4年永眠したが、その葬儀に濱保家の総代として参加した泰介は、和子叔母が府中で濱保家の祭祀を消し、濱保家の不動産を消し、濱保家の子孫を消し、濱保家のすべての記憶を消してしまったことを目の当たりにして驚愕した。その結果、棺に入った和子叔母は参列した親戚縁者の前で姓のないただの「優しかった和子おばあさん」となってしまっていて、これで和子叔母の計画は完成したのだった。そしてこのドラマは、他家に嫁して川原町の濱保家の土地を相続した娘の順子が、新しく建立した他家の墓に、濱保家の墓に葬られていた父剛の遺骨を取り出して母和子の遺骨といっしょに納骨したので、これで府中濱保家の墓からもその祭祀からも和子・剛は外れて府中濱保家の断絶のシーンで幕を閉じたのだった。もちろん順子は濱保家を絶やすことを企図したのではなくて他家に嫁した順子は父母と異なる墓に埋葬されることを嫌った行為だったが、これは振り返れば和子が予てから描いていた計画どおり実現された瞬間だった(※計画という言葉で泰介が思い出す記憶がある。それは高校生の夏に府中に手伝いに来ていた泰介を励ます目的で和子叔母が言った言葉で「計画はあるの?ちゃんと計画立ててやるんで」という言葉だったが何故か和子叔母と計画という言葉に違和感があったのでその後ずっと引っ掛かって覚えていたのだが、和子叔母はこの時から既に濱保家の絶滅を計画していたのかと思って驚いた)。日本には先祖を祀らない子孫が増えていて無縁仏の問題は深刻である。日本由来の日本人としての血統は祖先を祀ることによって繋がるのであり、たまたま自分が日本に生まれて来て死んで居なくなったのではなく、先祖があるから自分が存在し自分が居て子孫に繋がるので、先祖を代々に亘って祀り継ぐ行為によってしか日本人としての自覚を生じさせる道は無い。とまれ和子叔母は府中濱保家を断絶させたので和子の死を以て和子の「意趣返し」は完成したのかも知れない。何れにしても、府中の松村家・濱保家の祭祀を誰が継ぐかの問題は残ってしまったが、本来ならば濱保家嫡男である宇一伯父が生きている間に決めておくべきことであった。

21 府中、北野田、錦之町に在った濱保家の家は、現在では何れも後継者或いは所有者によって取り壊されており元の姿を忍ぶことは出来ない。府中川原町の屋敷は石州街道の資産家の風格ある建物であったが、当時府中郵便局の隣に在った濱保家の倉庫と交換したものであった。しかし、川原町の建物は老朽化していて住めなかったので、光男が費用を負担して住めるように改修したので光男名義となった。その家は次女和子の家族が住むようになったが、広過ぎて二階は使っていなかった。毎年夏休みに光男や元子の子どもが泊まりに来ても一階だけで足りるような広さだった。泰介が二歳の時に府中に預けられたときに母好子が迎えに来てくれたがその時に稲本の祖母壽子もいっしょに府中に来て川原町の家の二階の洒落た東屋風の角部屋に泊まったことがある。神戸の元子叔母がよく語ったように故郷府中を偲ぶ懐かしい建物だった。和子叔母は潔癖症だったので(※夏のアイスクリームの最盛期に毎晩夜更けまで働いて帰宅しても必ず部屋の畳や廊下を水拭きしないと寝なかった)親戚の子どもたちがやって来ては部屋の中を汚されるのが嫌だった。それで他家に嫁した順子は母和子の意向を受けたのか母の入院中に濱保家に何も相談しないで建物を取り壊して自分が住むための新築住宅を建ててしまった。祖父栄三郎は子孫たちが何時でも故郷府中に帰って来れるようにと考えて川原町の家を用意していたのだが、和子はこれには反対で、以降濱保家の親戚が府中に来ても川原町の家には泊まれなくなってホテルに宿泊するようになった。北野田の建物は、宇一が施主であったが光男が設計や良い材木の選定などを手伝い大工の仕事振りを見るために何度も現場に通って(※泰介は父光男に連れられて北野田の建築現場を訪れたことがあるが、その現場にコオロギが沢山いたので父はそれを捕まえて封筒の中に入れてくれたことがある)竣工した建物で、濱保家が府中から大阪に進出して初めて築いた記念碑的な居城であったが、後に相続人となった壽之が自分の病の原因を建物に押し付けて大変世話になった家を濱保家に相談なく簡単に取り壊してしまった。建物の家の崩壊は心のイエの崩壊に繋がるのものである。
 
22 光男の長男泰介は、当時学園紛争が盛んだった影響もあって、学園民主化で日本一の先進大学だった立命館大学を選んだが(※当時三国丘高校から立命館大学に入学する生徒は極少数なのは偏差値と就職率が低かったからだが泰介の目的は企業就職ではなくて社会革命なのでその基準は元より当たらない)体裁を重んじる稲本の祖母壽子には気に入らなかったようで、稲本家に来た来客から好子さんの長男はどちらの大学と聞かれて祖母は泰介に向かって「泰ちゃん同志社やったな」と言ったが祖母は孫の進路より体裁が大事だったようだ。泰介は父光男のように一流大学の肩書きに頼らずに社会の下積みから上を目指すには最も有効な進路を選んだが祖母は泰介の学力が足りないと思ったのだろうか。また、神戸の元子叔母は泰介が立命に行ったのは学費が安いからだと周囲に言っていたが学費が安いなら国公立の方に行くだろう。泰介は高校では授業や試験の勉強は全くしないでZ会の通信教育(※毎月英数国ランキングに入る。因みにZ会ランキングは東大合格レベルとされた)と好きな勉強だけしていたが普段の実力で入学できた。入学後に日本共産党に入党して毎日ほとんど学生運動のために大学に通って以後五十年間在籍。因みに今年日本共産党の志位委員長を批判して除名になった京都府委員会の鈴木元氏は当時の泰介の指導者の一人だった。出世も栄達も捨てて自分の未来を社会改革のために尽くせるのは青年の特権であるが、当時の高校にも大学にもそんな友人はほとんど居なかった。高校の同窓生たちはそれぞれ大学に進学してそれぞれ就職をして企業の求める人材になれば出世してそれなりの収入を得て既に大方は退職しているが本当に自分の人生と交換できるものを手に入れたのだろうか。泰介は大学卒業後は党活動を続けるために横浜生協で消費者運動を組織して活動したが、その後生協の将来に陰りを感じてコープかながわを辞職し(※事実その通り生協は衰退してただの物販店に帰した)横浜で会社を設立して独立した。現在は株式会社三社、NPO法人、LLP組合、一般社団法人の各代表を務めて未だ果たせない夢のためにシルバーフロンティア計画を立てて精進しているが、父親とは逆張りの人生を歩んだつもりが結局父と同じ経営者になったのは血がさせたのあろうか。泰介の進路を語れば戦後日本と世界覇権の変遷を語ることになるので、一言ニュートン力学の世界観で作られた共産革命理論は量子力学の世界観の時代になって齟齬を来たしたと言うに留めるが、確かに泰介は世界観の判断を間違ってしまって目指した上には自由に能力を開花できる共産社会は無くて近寄ってみれば腐っていた。しかし、高校や教師や政府や企業に阿る積もりは無かった。
 
23 晃夫、壽之、英樹の歩みを語るには泰介には情報が十分ではないが、次男晃夫は、滋賀大学経済学部を卒業後、村田製作所在職中にドイツ、シンガポール、中国の海外勤務の後に日本に帰国して配偶者の故郷新潟に新居を建設した。三男壽之は、近畿大学商学部を卒業後、㈱豊食品店に就職し、後に濱保宇一に養子入籍する。光男の死後に生まれた後妻黎子の長男英樹(四男末弟)は薬科大学で薬剤師の資格を取った後に、医学を学び直して医師国家試験に合格し、京都大学大学院医学研究科法医学講座で研究員として勤務。現在は島田市立総合医療センターに医長として勤務。医学博士、法医認定医、解剖医、小児科専門医、産業医。
 
24 稲本家は、堺の古い商家だったと聞くが(不詳)、祖母壽子は広島の出身なので(※祖母が自分の過去を語ることは珍しいが泰介が直接聞いたことである)、堺の稲本家へは縁あって養女として入籍したのだろう(不詳)。堺の商家では跡取り娘には必ず婿養子を取って家を継がせるので祖母は祖父榮治と結婚して稲本家を継いだ。祖父榮治は日本三商大の一つの大阪商大(※大阪市立大学)卒で、祖父の時代に大学を卒業出来る人間は極々少数のエリートだけであったが、大阪市の三木産業株式会社にキャリアとして雇用されて後に若くして重役になった(※後に宇一伯父が祖父榮治が会社で机に座って働いている姿を覚えている)。また、祖父は娘の教育にも熱心で、娘の絹子と好子には、堺高等女学校を卒業した後に、大阪府立女子専門学校専科(※戦後大阪女子大学、後に大阪府立大学)で学ばせているのを見ると、当時の女子教育としては最高のレベルであった。従って、どうしても光男の学歴の陰に隠れてしまって目立たないのだが、稲本家はエリートの父親の元で育った母好子の学歴も当時としては相当のエリートだった。
 
25 稲本家では、跡取りの長女絹子には婿養子として大阪府[こうだ」から(不詳)(※「こうだ」と書いたのは道治伯父の兄弟(不明)のおじさんを「こうだのおじさん」と呼んだ記憶があるからだが、他に藤井寺のおじさんも居た)道治(堺市教員として勤務)を迎え、次女好子には綾ノ町の後藤耳鼻科医師(不詳)との婚約を済ませていた。それがどうして光男と結婚するようになったのかと言えば、そこには稲本家の已むない事情があった。
 
26 次女好子の婚約後の稲本家では、祖父榮治が三木産業の手形事故を起こしてしまって、祖父はその責任を負うべく、現在の錦之町の自宅に続く借地を売却して(不詳)会社に弁償したので、残った土地は自宅と貸家にしていたクリーニング屋と毛糸屋だけであった。その結果、没落家の習いにより、婚約中の好子の縁談も破談となった。これには母も婚約者の医師の先生も落胆したようで、その後には、母は泰介をその医院に診察に連れて行ったり、その先生の黒塗りのダットサンが自宅の前に迎えに来て泰介だけドライブに連れて行ってもらったこともあった。その先生も結婚して、生まれたお嬢さんは泰介とは錦小学校で同学年だった。その後に、祖父榮治は、恐らく同じ三木産業に勤める宇一の縁で、宇一の実弟で九州帝大を卒業して参天堂に就職した光男と好子との縁談がまとまったのだと思うが(未確認)、果たして、母が光男との結婚を望んだかどうかは疑問がある。都会の富裕層出身のお嬢さんにとっては、財産がなく将来が読めない帝大卒の田舎者と将来の裕福な暮らしが約束された医師とでは、同じエリートでもその魅力は異なるであろう。その後十年以上経って、泰介は、母の死ぬ数年前であったが、父と母の心が離れて居るような胸騒ぎを子供心に覚えたことがある。また、ある日の宵の口に薄暗い玄関先の道路で、酒に酔った父がまるで旧制高校生のファームのように母の知人の誰か男性と二人で大声で唄いながら肩を組んで踊っていたが、母がその横で恥じらいながら黙って立って見ていたのを見た記憶があるが、何故父は母の前でそんな虚勢を張ったようなみっともない行ないをしたのだろうか。母は光男と結婚後十五年以上も経ったのに、未だに光男が結婚時に義母の壽子に約束した新居を建てて娘を連れて引っ越すことも実現できないことに希望が持てなくなったのではないだろうか。
 
27 話は戻って稲本家の祖父榮治は、手形事故の処理の為に北国の方に(不詳)出張中に旅館で急死してしまった。その時に母好子と婚約中か結婚後かは不明だが光男が祖父榮治の遺体の引き取りの為に出掛けて帰って来た。従って、その後に生まれた三人の孫たちは祖父榮治に会ったことも抱いてもらったこともない。 
28 泰介の幼児時代の記憶の中で一番古い記憶は広島の府中の記憶である。その時、泰介は二歳前で、母は晃夫の出産と育児のために泰介の面倒が見れないので泰介を府中の祖父・祖母に預けていた。祖父は泰介を自転車の子ども椅子に乗せて散歩に連れて行ってくれたのだが、その時に、横断しようとした道路では大きな土管か何かを埋める工事をしていて人が隠れるほどの深さの溝を掘っていたが、その上に架かった細い板葺きの橋を渡ろうとして、自転車ごと祖父と一緒に穴の中に落っこちてしまったのである。その時に、泰介は自転車で落ちた時の瞬間だけをスローモーションフィルムのように覚えている。二歳前の幼児が、他の記憶は消えているのにそのシーンと祖父に危ないよとか何とか言ったことだけはっきり覚えているのだが、記憶とは実に不思議なものである。
 
29 泰介の幼児時代のその他の記憶は、すべて稲本家の屋敷の中の記憶である。母は、日中はいつも稲本の実家で過ごしていたので、子どもたちもいつも稲本家の居間と座敷のある一階で過ごした。稲本家では耕ちゃんがリーダーとなって弟のじんち(※治朗ちゃんのことをこう呼んだ)と泰介・晃夫を指揮して次々と新しい遊びのアイデアを考え出しては(※例えば電気を消した暗い座敷の床に逆さにしたセロテープを置いておいて居間から座敷を通って廊下を経てまた居間までぐるぐる歩いてから足の裏を見てセロテープを踏んだ者が負けになるゲームとか)遊んでいた。また仏間の竹製の座敷に寝転んで、そのころ流行っていた少年ケニアとかその他冒険ダン吉とか戦時漫画を読んでいた(※当時の泰介は漫画の中の幼児が甘えてわがままを言ってだだをこねている描写を見て、とても不愉快に感じてこういうことはしてはならないとその幼児に叱っていたことを思い出す。子供の性格は遺伝なのか幼稚園前後には人格は完成されていることに驚くものである)。幼稚園に通う頃になって思い出すのも稲本家の団らんの記憶であって、そこにはいつも和服姿の祖母壽子と伯母絹子が居た。幼児期に父と母と自宅でいっしょに過ごした記憶はない。稲本家では毎年暮れには裏庭で杵と臼で餅をついたが、部屋中青のり、海老、ごまと白餅の餅箱で埋まった。逆さにした大きな竹籠の編み目に何枚も差し通した板の上に四角に切った餅をいっぱい並べて乾かした。このかき餅が乾いたら火鉢にあぶって醤油に浸けたおかきを食べさせてくれた。またサイコロに切った餅を乾かして網で出来た四角い容器に入れて火鉢に炙って膨れた餅に醤油を掛けたあられを作ってそれを茶がゆに入れて食べさせてくれた。また菜の花の季節には菜の花の黄色い漬物を茶がゆに入れて食べさせてくれたが、これらは稲本家で体験した季節の風物詩だった。また、色取り取りの和服をほどいてそれを洗って両端を竹ひごの先の針で拡げて干す洗い張りは庭で見られた季節の風物詩だった。また、稲本家の前栽には、奥の壁際に石灯籠があって、赤い椿の花の木や金柑、南天や常緑の灌木が植えられていて、屋敷の廊下の長い窓ガラス戸から眺められた。廊下の右端にはご不浄があって、用を足したらガラス戸を開けて手水鉢で手を洗ったが、その下には小さな池があって、赤や黄や白の金魚が泳いでいた。前栽の奥の右端には木戸があって裏庭に通じていたので泰介は逆に裏庭から前栽に勝手に入ったが何故だかいつも祖母からしかられそうな気がしていた。小学生の頃に友だちと裏庭で野球やドッチボールをして遊んだが濱保家からだと靴を脱いで家に上がらねばならないので稲本家の屋敷の玄関から勝手に入って(※稲本家では普段日中は玄関に鍵を掛けていなかった)屋敷内の通り土間を無断で通って裏庭に出入りした。庭でドッチボールをしていると稲本の道治伯父さんがトイレに来たときに立ち寄って遊んでくれた。また道治伯父さんは夜に庭で星を見ていると天体観測を教えてくれた。道治伯父さんは朝には定時に自転車に乗って小学校に出掛けて、夕方にはほぼ定時に自転車で帰って来た。伯父さんは屋敷の中では奥の道路側の自室で座卓の前に始終座って授業の準備をしていたと思う。伯父さんの部屋の隣の手前の部屋は耕一さんと治朗さんの勉強部屋で木製の勉強机が二つあった。勉強部屋からは玄関を通らずに戸口から玄関前の土間に出ることが出来た。稲本家の裏庭には別棟の大きな納屋があって、一つの入口は木の引き戸で中は高床で大事な物を収めていた。もう一つの入口は木の大きな開き戸で庭から続く土間には色んな物が積んであったりぶら下げてあった。庭には大きな枇杷の木と無花果の木があって毎年沢山の実を付けた。枇杷は小さい実だが美味しく食べられた。無花果は絹子伯母さんが寒天に固めてくれたが、それでも食べきれないので子どもたちは実を投げ合って遊んだ。無花果の葉を折ったら滲んでくる白い樹液に触れば痒くなった。稲本家には黒色電話があったので、父光男は急いでいるときには電話を借りて会社の連絡をしていた。また、稲本家では食事は通り土間の横の食卓で食べていたが、そこから一段上がった所に居間があった。稲本家の朝食は毎朝熱い茶がゆを炊いてそこに昨晩残った冷やご飯を埋めて食べていた。泰介は茶がゆが一番好物で堺北幼稚園の面接で好きな食べ物を聞かれて「おかいちゃん(おかゆ)」と答えた。その好物は成長しても変わらず学生時代に錦之町の家に帰ったら絹子伯母に頼んで茶がゆをご馳走になった。稲本家の居間には堀り炬燵があって祖母と伯母は大抵そこに座って一日中テレビを見ていた。NHKの料理番組が好きで毎回欠かさずに見ていた。稲本家では絹子伯母が一番料理の才能があったが、後片付けは苦手だったのでその役目は妹好子か祖母だった。掘り炬燵の横には火鉢があってそこで餅などを焼いて食べさせてくれた。居間には町屋独特の階段箪笥があって二階へ上がって道路側の部屋が祖母の部屋だった。祖母は三味線か琴の名取りで(未確認)、泰介が小さい頃には何人かの女性が習いに来ていて屋敷の窓から音曲が聞こえた。耕一さんが音楽の才能を発揮したのも祖母の才能を受け継いだからだろう。もし祖母が生きていたら孫の響くんと渡くんの成功に大喜びしただろう。因みに響くんは今年のNHK大河ドラマ「どうする家康」の音楽監督で活躍している。それと稲本の耕一さんと治朗さんと濱保の晃夫は殿馬場中学と三国丘高校でブラスバンド部に所属していて耕一さんと晃夫はクラリネットで治朗さんはトランペットを吹いていたがこれも祖母の遺伝だろう(※泰介は歌が好きだが楽器の才能は無い。小学生の頃に家にバイオリンがあってそれは多分稲本家から持って来たのだと思うが泰介はそれで遊んでいたが、もし泰介にバイオリンの才能が有ったら今頃はさだまさしのような歌歌いになっていたかも知れない)。それから時は随分巡って、母好子が亡くなり、父光男も亡くなって、その後に祖母壽子が病で伏せっている時に、泰介は結婚した家族と一緒に堺に帰った。その時に祖母は泰介を二階の自分の部屋に呼んで、寝台に横たわりながら最後の言葉を託した。泰介に残した遺言は、「お祖母ちゃんは死ぬのは何にも怖くないねん。お祖父ちゃんと好ちゃん(母好子のこと)に会えるのが楽しみや」と話しながら、泰ちゃんに頼みたいことがあると言って託されたのは、絹子伯母さんは寂しがり屋だからそれだけが気掛かりなので、泰介には是非絹子伯母さんの力になってやって欲しいということだった。泰介はもちろん、それは大丈夫だから安心してと伝えたが、その後、泰介は絹子伯母のためにどれだけのことをしてあげられたかまったく申し訳ない気持ちである。堺に帰ったら稲本家に立ち寄って話し相手になるようにしたものの、まったく不十分で祖母に恥じ入るばかりである。それであるとき十万円を包んで好きなものを食べてやと言って渡して来たが、そんなもので祖母に託されたことにも世話になった伯母の恩にも報いることも出来ない。その次に会った時に、伯母は「あんなぎょうさん」と礼を言われたがどこまでも寡黙な伯母であった。そんな伯母が一番輝いて見えたのは、耕一さんの東京や横浜で開かれた音楽コンサートの時には泰介も家族を連れて出来る限り参加したが、コンサートには伯母も一緒に訪れていて(※暁子さんが連れて行ってくれたのだと思う)伯母はまるで少女のように喜んでいたのを覚えている。耕一さんの音楽興業の成功を語るときにそれを表と裏で支えた暁子さんの助力を抜きに語れないだろう。伯母は長く膝を痛めていたので、稲本家を訪ねて玄関の呼び鈴を押すと随分経って伯母は土間の押し入れの戸を手で伝いながらゆっくり玄関に来てくれて玄関の鍵を開けてくれた。また父光男の三十三回忌(平成17年8月)には超元寺の法要と堺東の楓林閣で開いた宴席には一人で来てくれた(※平成15年に道治伯父が逝去のため)が、その伯母も平成23年1月に自宅で急逝した。偶然だが妹の好子は自宅の浴室で亡くなり姉の絹子は自宅のトイレで亡くなった。今頃は極楽浄土で祖父・祖母・妹好子や伯父といっしょに居るだろうか。
 
30 泰介は、少年期から中学生までの記憶で母の声も会話もほとんど覚えていない。姉の絹子伯母も寡黙であったので、稲本家の中では祖母のよく通る声ばかりが耳に残っている。母に絵本を読んでもらった記憶もないし、また母といっしょに遊んだ記憶もない。母はひと言ふた言話すだけで、子どもと会話することが少なかった。母はたまに阪堺電車に乗って阿倍野の近鉄百貨店の最上階にあった当時流行ったデパートの大食堂に連れて行ってくれたが、母が子どもをテーブルに座らせてから食券を買いに行っている間に、隣のテーブルに座っていた女性客のグループから「きれいなお母ちゃんやね」と声を掛けられたことを覚えている(※祖母の言葉では、娘時代は母よりも姉の絹子伯母のほうが綺麗であった)。あるとき、母はそのころ新発売の海老満月というお菓子を綾ノ町商店街の入口から三軒目のテラキ菓子店で買って来て、ビニール袋に入った一袋(※当時は量り売りだった)を丸ごと渡して、留守番しておいてと言われたことがあるが、買い物を頼まれても駄賃をくれたこともないのにその時は留守番くらいで何故お菓子をくれたのか分からないので覚えている。何かのお楽しみの外出か或いは口止め料だったのかも知れない。母はいつも子どもの近くに居たようだが何故か存在感が無かった。勉強を教えてくれたこともないが宿題をしなさいと言われたこともない。錦小学校の運動会にカメラを持って来て写真を撮ってくれたり、小学生の終業式の後に、親しい友人を家に招いてクリスマスイブのパーティを開いてくれた。母は家の中をクリスマスらしい飾り付けで飾って、手製の料理も用意してくれたが、そんな企画をプロデュースするのが得意だった。また、中学の時には泰介は自転車で殿馬場中学校に通っていたが、朝の出発がいつも出遅れるので、母はいつも学生鞄を先に自転車の荷台に縛ってくれた。母は、喜怒哀楽の少ない人だったので、母と喧嘩したり怒られたりした記憶がない。ガラス戸を廊下の納戸の扉に立てかけてあったのを泰介がその納戸を内側から押し開けてしまったのでガラス戸が倒れてガラスを何枚も割ってしまったことがあったがその時は怒られると覚悟したが一言も怒られなかった。逆に夕食時に食卓で晃夫とふざけていて、母が作ったカレーをいきなりお玉で掬ってルーを頭に投げつけられたことがある。言葉で諭すのではなくていきなり癇癪をぶちまけられたら泰介でなくとも傷付くだろうに、その時に何故そんなに怒られたのか理由が分からずに今だに覚えている。母はコミュニケーションが苦手な人だったのかも知れない。母は稲本家の人間なら堺商人の末裔らしく生命力がありそうなものだが、まるで権勢を失ってプライドだけ強い旧家の娘のようで、前栽に咲いた隠微な紅い椿の花のように、世間を気にしながら、黙ったまま自分を主張して、世間の恥であってはいけない、世間に引けを取ってはいけないという見栄だけに生きる娘のようだった。父にとっても母はどういう存在だったのか疑問に思うものだが、母は父のような広島の田舎者が都会に出て来て簡単に娶ることが出来るようなお嬢様ではなかったのに、父は運悪く近付いてしまって嫁にしてしまったのが不幸の始まりではなかったか。母は夫を尻に敷くでもなく、我が儘を言うでもなく、ただ可愛いだけのお嫁さんになるように育てられたので、こんな箱入り娘を育てた稲本家とこんな嫁を娶った自分の不幸を恨みながら、ただただ嫁を幸せにしてあげれば良いだけのことだったのだが、父にはそんな芸当が出来ずに、手こずっている間に、この生命力の薄いお嬢さんは三十九歳で薄幸な生涯を終えてしまったが(※泰介は母の死後五十年以上経った最近の夢で全く久しぶりに母と出会ったが、その夢では泰介の前に母が椅子に座っていて、その母に手を伸ばしたら顔に届きそうな距離で肌に触れれば柔らかさとみずみずしい生気を感じるほどビビッドなカラーだったが、その母はまだ少女の面影がある若い娘だった。その時に母がはにかみながら言った言葉は「うちはそんなんと違うねん」だった。この意味を後で考えて、子は親が死んでも何時までも自分より年上であると思うものだが、実は母が亡くなったのは三十九歳で泰介の娘よりも若かったので、泰介が抱く母の像がいつも泰介より年寄りの母の姿になっていることに対して母は本当の自分はそんなんとは違うもっと若いんやと文句を言いたかったのに違いない。このときに泰介は母は死んだときにはまだ乙女の名残もある若い娘だったのだと気が付いて夢の中で大変驚いたのを覚えている)、父は箱入り娘のお嬢さんである母の婿には向いていなかったし母も生き馬の目を抜く商人の社長夫人には向いていなかった。母は子どもに勉強しろと言ったことはなかったが、子どもが成績が良かったときは喜んでくれたのでそういう子どもに育てたいと思っていたのかも知れないが、それでも頑張れとか将来何々になれとか言って励まされたり教育されたという記憶がない。あるとき母が言うには知人の子息が二人とも京大に入ってアイスホッケーをやっているという話を聞かせてくれたが羨ましいという意味だったのだろうか。殿馬場中学の三年に進級した春の中間試験で、当時団塊の世代で六百人以上いた学年のトップになった時は、母はPTAで学校に行った時だと思うが職員室で先生たちに大変褒められたと言って喜んでいたのを覚えている。その一年後に母は胃癌が進行して死の床に就いていたのだが、その春に三国丘高校に合格したことと併せて母への親孝行が幾分か出来たのだろうか。
 
31 ここで、なぜ私が表題に「父濱保光男と母稲本好子の生涯」と記したかを説明しなければならない。これまでも私は母好子が母親として影が薄かったと感じて来たが、この文書を書いてみて改めてその気持ちを強く持つようになった。母好子と姉の絹子伯母の姉妹は伴に錦之町の稲本家の屋敷に生まれて育ちその後結婚して同じ稲本家の屋敷で所帯を持ち子どもを育てて同じ稲本家の屋敷内で亡くなったが、姉絹子は稲本家を継ぐべく育てられて稲本家の人間として生涯を終えたのに比べて母好子はやがて他家に嫁いで出て行く可愛いお嫁さんになるべく育てられたのだが結局幼い頃からの夢は叶わずに終生を終えたのだった。例えるならば母好子は蛹から羽化したものの一度も外界に飛び出ることなく生涯を終えた蝶の様だったのではないだろうか。母好子は果たして濱保好子に成ったのだろうかそれとも終生稲本好子のままだったのだろうか。私(泰介)は母好子は夢が叶わない人生を恨みそのストレスが高じて胃癌に転化したようにも思えるのである。
 
32 母の死の経緯を語る前に、父光男の思い出を振り返ると母の思い出より多いので意外だが、普通は誰でも母の思い出の方が多いのではないだろうか。それで、父の思い出の主なものだけに限ると、小学生の頃は父とよく風呂に入ったが、父は風呂場で旧制高校寮歌を教えてくれて、風呂に浸かって一高寮歌(嗚呼玉杯に花うけて)と三高寮歌(紅萌ゆる)の一番を歌い終えなければ浴槽から出してくれなかったので一生懸命覚えて今でも諳んじることが出来る。何故父が息子に童謡でなくて旧制高校寮歌を教えたのかは寮歌を通じて何かを教えたかったからであろう。それは旧制高等学校で尊ばれたエリート意識に基づく自治精神やバンカラ精神であったのかも知れない。泰介は毎回風呂で寮歌を歌っていたので、もう自分は三高生になった気分になって、将来自分は京大に進むものだと思っていた。しかし、末弟の英樹は京大医学部大学院で医学博士号を取得したので、あながち父の望みが叶わなかった訳ではない。それより泰介にとって不幸だったのはこの頃から京大より下位の大学にはまったく行く気が無くなってしまったことである(※特に私立大学は国立の滑り止めなので全く関心が無かった。あるとき父に来客があって父の大学時代の学友で同志社の工学部教授をやってる橋本さんに入学の斡旋を頼んでいた人だったが、父が言うにはもうちょっと入試の点数が高ければ何とかなるが低過ぎたので難しいとの返事だったとのこと。それでこんな大学にもし間違ってでも入ったら裏口だと思われそうなので行く気はなかった)。父は旧制高校の洗礼を受けて大いに感化されてしまって、自ら旧制広島高校の寮歌も作詞したと聞いたがまだその現物にお目に掛かったことはない。また父はそこで行われたファームやストームという寮の儀式のことをよく語ったが、父にとってこの時代が我が世の春であったのではないか。普通はバンカラに酔いしれていたエリート学生も高校の三年間が終わって天下の帝国大学に入れば、今までの熱いパトスをさっぱり捨て去って現実の出世競争の垢にまみれて行くものだが、父は大学に入ってもいや大学を卒業しても、その熱いパトスを捨て切れずに永遠に酔いしれているようだった。父にとって大事なものとは意気であり熱情であり友情であった。しかし、そんな書生の甘いロマンが堺の商家に通用する訳がなく、その溝は年を経るごとに広がって行ったのではないだろうか。もし、この光男と兄の宇一が入れ替わっていたなら両家にとってもっと良き縁であったのではないだろうか(※もちろん三人の息子はこの世に存在していないが)。当時祖父の稲本榮治と宇一伯父は三木産業という同じ会社に勤めていながら、どうして娘の好子の見合い相手と見做されなかったのかと言うと、宇一伯父は実家の犠牲になったために商業学校中退の学歴で入社して丁稚奉公からスタートした社員だったので、如何に慧眼の祖父といえども宇一の実力と将来性を見抜けず、学歴だけエリートの弟の光男に白羽の矢を立てたのであろう。実は、宇一伯父こそリアリストで経済観念に秀でた逸材でもし許されていれば東京高商(現一橋大学)から経済界に進出していたことだろう。宇一伯父は泰介に「伯父ちゃんに学歴があったら鬼に金棒やけどな」と言っていたが、事実、その後宇一伯父は外部雇用者としては初めて三木産業の専務取締役という最高位まで上り詰め、宇一の通夜に訪れた三木社長(※宇一が昔に背中に背負ってあやしていた赤ん坊)に宇一は会社にとって掛け替えのない番頭だったと言わしめたのであった。
 
33 光男は、文芸や美術の才能もあったが理科系にも優れていた。父は中学時代に地元府中の友人たちを集めて文芸同人会を結成したが、その文芸誌の表紙は毎回父が描いた水彩画で飾った。父は中学校の五年課程を四年で卒業した秀才だったが、その四年間の数学の試験はすべて満点だったと聞いた。泰介が小学生の頃に、父に竹ひごの飛行機をねだると、父は流体計算を紙に書いて設計図を描いてから竹ひごと紙で飛行機を作ってくれた。その時に父は、本当は東京大学の航空科に行きたかったと話したが、競争率が高かったので戦時下では無試験で行ける九州大学の応用化学に進んだそうだ。また理科系に進んだのは文化系だと学徒動員があってそれは直ちに死に繋がり、長兄の宇一が召集されており、この上光男が召集されたら濱保家を継ぐ者が絶えてしまう心配があったからだと聞いた。
 
34 父は、泰介が当時のテレビで見た、宇宙船の操縦席を作って欲しいとねだると、紙に設計図と電気の配線図を描いて、棒、ベニヤ板、電球、電線、電池などを買ってきて、子どもの胸ほどの高さの宇宙船の操縦パネルを作ってくれた。また、泰介が学校旅行に行くのでカメラをねだったら、父はペトリハーフというカメラを買ってくれたり、フジカシングル8という8ミリ映写機が流行ったときには8ミリ機やフィルムを切り貼りして編集する機器も買ってくれたが、撮り貯めた家族の8ミリフィルムは父の再婚のときにすべて消失してしまった。
  
35 母は、子どもたちに勉強を教えてくれなかったが、父からも勉強を教わった記憶が無い。両親とも高学歴で特に父は受験勉強の勝者なので勿体ないことだが、子どもたちは父の背中を見て勝手に勉強していた。父から教わったのは、弱い物いじめをするな、友だちを大事にせよ、卑怯なことをするなということくらいであった。
 
36 父は、母が不治の病に罹っているのを知って、まだ母が旅に出る力があるうちに家族旅行を企画して家族で岐阜県の下呂温泉の水明館に宿泊してそれからライン川下りと鳥羽水族館から篠島に渡った(※晃夫の思い出から)。子どもたちに母親との最後の思い出を残してやりたいという親心であったが、母の病気のことは稲本の実家ではすべて知っていて、後で道治伯父さんが思い出旅行だと教えてくれたが、喜んではしゃいだのはそれを知らない子どもたちだけだった。

37 母の死は、泰介が高校に進学した六月に青天の霹靂のようにいきなりやって来た。父は、母の病気を子どもたちには胃潰瘍だと教えていて胃癌だとは言ってなかった。それは父の母と子どもに対する思いやりではあったが、子どもたちは、予想だにしていなかった母の死にいきなり直面して驚愕した。泰介は、当時、離れの6畳のプレハブの部屋で一人住んでいて(※そのプレハブは元々府中の遊び相手だったのぶちゃんやしんちゃんを中学卒で父が雇用して住まわせていたのだが、母が入院するようになって世話が出来ないので別の所に移転して空いた部屋を泰介が使っていた)他の家族は母屋の一階で川の字に寝ていて、どういう順序で寝ていたのか不明だが、母は風呂場に一番近い場所で休んでいた筈である。その翌日は母が入院する日だったが、泰介はそのことを知らなかったので、その頃家族間のコミュニケーションは良くなかったのだろう。母は家族が寝静まった夜中に、一人で風呂場に行って浴槽に溺れて死んでしまったのだと言う。朝になって父が部屋に母が居ないことを見付けて浴室で母の亡骸を発見した。知らせを聞いた祖母が泣きながらプレハブの横を通って行くときの泣き声に起こされて目覚めたが、一体何が起きたのかしばらくは分からず何か大変なことが起きたのだと分かって、ずっとプレハブから出られずに居たので、母の遺体も死に顔も見ていない。母の死についての詳細な事実は、誰も教えてくれなかったし、また、自分も詳しく尋ねることに躊躇したので、今だに闇の中である。ずっと後になって、稲本家の暁子さんと話していて、暁子さんはその経過を知っていたので驚いたが、祖母か絹子伯母から聞いていたのだろう。泰介は、今まで、祖母や伯母からその話を聞いたことがなかった。母は家で死んだので不審死と言うことで警察の捜査が入って、他殺や自殺でなくて事故扱いになった。新聞記事になるところを佐治先生が尽力して取り止めさせてくれた。
 
38 母は、父が約束した稲本家の外に住宅を新築して暮らすことも裕福な暮らしも出来ないまま、三十九歳の若さで逝ってしまった。このことは後に、父が後妻を幸せにしないまま、結婚後二年半に満たず自分が先に逝ってしまったことと重なるが、光男は結局、生涯に二人の妻を幸せにしてあげられなかった。その内容には二つあって、一つは満足行く住宅を提供出来なかったことで、二つは十分な資産を提供出来なかったことである。あと敢えて三つ目を挙げれば、子どもに十分な教育を提供出来なかったことであろうか。
 
39 子どもたちは、父は子どもへの気遣いもあって母が亡くなってから七年近くも独身で過ごしたので、子に遠慮しないで父に再婚してもらいたいと思っていた。

40 泰介は、母の死亡時には高校一年生、晃夫は中学二年生、壽之は小学六年生だったが、父の再婚時には泰介・晃夫は既に大学生だったので母親が居なくても自分の生活を切り開いて行けた。しかし、壽之はまだ高校三年生だったので小学六年生の時に母と死に別れて以来、必要な時には母が居らず、甘えたいときには母が居なかったので、その無念を取り戻すためにも、泰介は父が再婚するときには、新しい母には連れ子がいても良いので暖かくて明るい家庭を作ってくれるしっかり者で気さくな継母の存在が望ましいと思っていた。
 
41 泰介は、母の死後しばらくして高校一年生時に、宇一伯父宅に身を寄せたのは、三人の子どもが稲本家の世話になれば大きな負担を掛けるので泰介が外に出ることが一番良いと思ったからである。また父には当時小学校六年生だった末っ子の壽之が一番愛おしかったので自分の手近に置いて育てたいはずだと思ったからでもあった。また、もしその時に壽之を伯父に養ってもらえば養子に出すようなことであったので、それは母の意思ではないと思ったからであった。

42 壽之は、その後になって宇一伯父の養子に入ったことを考えると、最初から壽之を預けて育ててもらった方が壽之の為に良かったのではないかと後悔している。また、神戸の元子叔母は、宇一の養子なら壽之をと前々から言っていたのだが、そうならなかったのには訳があったのだろう。泰介が先に自分の判断で宇一伯父の庇護を受けたことが理由かも知れない。もし壽之が宇一夫婦の養子に入っていたら、進学先、就職先、結婚相手には当然伯父伯母の意思が及ぶので、壽之は違う人生になったと思うがそれが壽之にとって幸せだったかどうかは一概に断定できない。
 
43 泰介は、宇一伯父・伯母の家に養子として入る積もりだったので、嫁が濱保家の嫁として相応しいかどうかの出自調査をやってもらった後に結婚した。
 
44 泰介は、高校生の時に美恵子伯母との間で養子に入る口約束を交わしていたので、結婚するときには結婚相手には、宇一伯父・美恵子伯母を父母として世話してくれる女性を優先して選んだので、嫁も最初からお父さん、お母さんと呼んで暮らしたし、息子と娘も生まれた時からおじいちゃん、おばあちゃんと呼んで育った。将来は伯父宅に入る予定であったので、美恵子伯母が心臓の病で入院した時には、伯母を介助する為に、嫁は勤めていた生協の正社員を退職して引っ越しする準備もしていたのだったが、生まれた娘が難聴児だったので学校教育に特別に手間が掛かった為に、引っ越しするタイミングが伸び伸びとなった経過がある。美恵子伯母は、濱保家の兄弟や従兄弟にも誰に対しても公平で優しかったので、濱保家や高田家の子どもは誰でも伯母に恩義があるが、泰介が高校一年のときに身を寄せて以来、十年以上養ってもらい実質の親子の関係だったことで、生涯掛けて恩返しをする積もりで居たところ、その後に、美恵子伯母が急死してしまった為に、高校生から抱いて来た伯母を支えて暮らす目的が無くなってしまって力を落とした。
 
45 父は、再婚によって願いどおりの妻を得たが、子どもたちは願っていた母が得られなかった。
 
46 壽之は、元の自宅に住んでいた時には、母がやってくれていた世話を稲本家の祖母や伯母がやってくれていたのだが、父と一緒に転居したお陰で、転居した自宅ではまるで間借りしている学生のように衣・食・学・掃除・洗濯など身の回りの世話を自分でやって暮らさねばならなかった。
 
47 晃夫は、大学生活の為に他県に転出していたが、年に数回は帰省したので、父が錦之町の自宅に居たときはそれまでと同じようにそこに泊まることが出来たのに、父が宿屋町に転居したお陰で、自宅に立ち寄っても、再婚夫婦に挨拶したら直ぐに出て行かなければならなかったし、稲本家に在った元の自宅に立ち寄っても、既に自分の居場所が無くなってしまっていたので、結局何処に行っても落ち着ける家が無くて、まるでジプシーのように自分の故郷が消失してしまったようだった。
 
48 泰介は、この変化が起きる前に、既に、生活の拠点を宇一伯父宅に移していたので、父の再婚によって生活の拠点が無くなるような悲劇はなかったが、それでも、父の再婚によって新しい家庭が出来たときには、当然、父の住まいに帰宅して、新しい母の元で新しい家族を営むものと思っていたので、今回の再婚はそれとは様子が違ったものの、自分の居場所が無くなるということはなかった。
 
49 このように、父の再婚によって子どもたちに起きた変化は、一様に自分の生活の拠点である家が消失したことだったが、それなら父の再婚に付き合って転居する意味がなかった。子どもたちは突然の母の死によって、いきなり家庭の中心である母の喪失を体験したが、その状態が父の再婚を経ても更に増幅してしまって、子どもたちの心の中では、それが現在に至るまで回復されないままである。 

50 しかし、そんな壽之も晃夫も泰介も、父の幸せを第一に考えて、自分を犠牲にすることを厭わなかった。子どもたちはそれぞれが自立する道を辿った。いや無理矢理に辿らされたのであった。
 
51 父が再婚のことを子どもたちに話したのは何時のことだったのかは忘れたが突然のことだった。しかもそれは既に決まったということだったので検討する余地も無かったし、相手の詳しい情報は分からないし、再婚前に面会することも無いと言うし、どういう家族になるのかも知らされなかったので面食らったが、三人の子どもたちは皆んな、これが父が決めた後妻であり父が納得して結婚するのならば新しい母を喜んで受け入れる積もりだった。
 
52 この時には、子どもたちも親戚たちも、思いも寄らなかったのは、再婚夫婦は子どもたちの面倒は見ないという約束を交わしていて(未確認)、そのために子どもとの養子縁組は行わないし、先妻の慰霊もしないとの、即ちそれは親戚付き合いをしなくても構わないという合意を交わしていたことで(未確認)、それは後で再婚夫婦と親戚間で亀裂を生むことになった。
 
53 父は、再婚後の生活の準備の為に、結婚式が行われる前の昭和46年4月の春休みに、三人の子どもたちに対して、全員揃って先妻の遺骨を府中に運ばせて、先祖の松村家の墓地(※濱保家の墓はまだ無かったので)に「釋尼妙好之墓、俗名浜保光男妻好子」の白木の卒塔婆を立てて埋葬させた。母はこの時から後に泰介が堺の超元寺墓地に建墓した濱保家の墓に改葬されるまでの八年間、堺から遠く離れた府中の見ず知らずの松村家の墓地に独り埋葬されて、光男からも親族からも参ってもらうことなく放置された。
 
54 子どもたちは、母の埋葬は後妻として来て頂く方への配慮としてやるべきものだと思っていたが、父は子どもたちや親戚には知らせずに後妻との間で交わしていた先妻を祀らないという約束を守るために(未確認)、再婚生活の新居から先妻の遺骨はもちろんあらゆる先妻の遺品を子どもたちが全員府中に行っている留守中に捨ててしまった。それで子どもたちにとって代えがたい貴重な母の写真や家族の8ミリフィルムなどがすべて消失した(※その後何年も経って母が学校時代に描いた絵画が稲本家に残っていたのを稲本家の暁子さんから泰介がもらい受けた)。
 
55 再婚夫婦は、新婚旅行から帰る途中に、府中の両親に挨拶に立ち寄ったが、その足で妹の和子夫婦の住む川原町に立ち寄り、後に、祖父が剛叔父に背負われて宿屋町を訪れる騒ぎを起こした。府中に立ち寄り妹夫婦に挨拶するならば、これまでの宇一と光男兄弟に代わって両親を扶養してくれた妹夫婦の苦労をねぎらい、感謝を伝えなければならないのに、そういう配慮は無く、妹夫婦に聞こえる声で「これが貴方の家なの」という会話をしたので、妹夫婦は驚愕したが、これで川原町訪問の目的が後妻のための財産の確認であったことが妹夫婦には明らかになった。 

56 三人の子どもたちは、再婚夫婦が新婚旅行から宿屋町の自宅に帰宅したときには、宿屋町の家で待っていて出迎えたが、この時に初めて後妻に会ったのだった。その後、二人の兄は直ぐに帰ったが、壽之は二階の部屋に居た。壽之はその日の食事を再婚夫婦といっしょに食べたのだろうか(未確認)。また、それ以後壽之は再婚夫婦とは別に自分一人で食事する生活になったようだが外食したのか稲本家に行って食べさせてもらったのだろうか(未確認)。
 
57 再婚夫婦は、宿屋町の家に住んでから、稲本家、北野田の宇一夫婦、神戸の高田夫婦に挨拶に行ったはずである(未確認)。尚、この時点で親戚は上記の夫婦が交わした約束の事実は知らないので通常の挨拶は受け入れた筈である。
 
58 泰介は、父の再婚後に宿屋町の自宅を二度訪ねたが、あるとき、父と後妻が和室の座卓に座っていて、父の揮毫の書を半紙で三枚もらったことがある(※その書は泰介の会社に掛けてある)。その時に父から「カネが欲しかったら言って来い」と言われた。泰介は宇一伯父宅の世話になって以来、父から金銭はもらっていなかった。また、後妻が父が最近買ったという英語の百科事典の話をして「お金が無いのに買ったのね」と話していた(※このことは光男の家計が逼迫していたことを示している)。また、最近生命保険を解約したという話も聞いた(※経営者が生命保険を解約するときは99%資金繰りに窮したときである)。また父が入院する前に、父が病で寝ているという知らせで帰宅したときには、居間に布団を敷いて寝ていたが、この時には既に父には腹水が貯まっていたので、後妻はその腹水を出してやりたいと手で動作を交えて話した。
 
59 晃夫は、父の再婚後には年に数回は必ず父の自宅に帰省したが、挨拶だけ済ましたらその足で稲本家と北野田伯父宅や神戸高田家にも挨拶して回った。しかし悲しいことに何処に行っても靴を脱いでゆっくり休める家が無かったので座が温まる前にホテルか下宿に戻るようなジプシー生活を送った(※三人の子どもたちが何れも婚期が早いのもこうした家が消失した影響があったと思われる。もし父母が存命であったら何れも進学先、就職先、結婚相手が変わっていただろう。泰介は中学高校から望んでいた同級生の女性がいたが立命、共産党となって話は消えた)。

60 泰介が最後に父と会ったのは、父が緊急入院した病室の中であった。
 
61 泰介は、当時、大学の四回生で、宇一伯父になるべく負担を掛けないために阪急が経営する嵐山レストハウスでアルバイトをしていたので、そこに誰からか忘れたが電話が入って父の入院を知ったので、急いでその病院に向かった。何処の何病院だったか、どういう経過で入院したのかは、その時に聞いたはずだがまったく失念している。病院では後妻と壽之が交代で病室に泊まり込みをしていたので、泰介を含めて三人交代で泊まり込みをすることにした。壽之の次に泰介の番になって、翌日の朝は父と泰介は普通の会話をして、壽之がはしこいのでトイレットペーパーを他所で見付けて病室に持ち帰って来るんだというような笑い話をしていたが、午後になって父の様子がおかしくなったので、直ぐに泰介はナースに相談して神戸の元子叔母に電話したところ、叔母は高田の叔父に直ぐ連絡してくれて夫婦揃って程なく見舞いに来てくれた。後妻や子どもには病院から連絡がされたらしい。
 
62 父と高田の叔父は、最初は普通に話しが出来て、父は叔父に「終戦処理を頼む」と頼んでいたのを覚えている(※後で知ったことだが、終戦処理とは事業を畳むことで、父は、父の会社の取締役だった高田の叔父に事業を畳む処理を依頼していたのだった)。ということは、その頃には相当に父の事業は傾いていたことになる。そうでなければ事業の継承の話になるはずであるが、そうでなかったのはその時には高田の叔父も父の事業の行き詰まりを知っていたということになる。
 
63 そうこうしているうちに、父の意識が混濁するようになって会話が出来なくなったので急いで泰介は医者を呼んだ。父は両手を泰介の方に差し出して、起こしてくれと何回か頼んだが、泰介は病人の身体を起こしてはいけないと思って起こしてやることはしなかったが、その判断は今に至るまで果たしてそれで良かったのか後悔している。結局、意識を回復しないまま大きないびきをしながら父は亡くなった。臨終に立ち会えたのは後妻と子どもたちと元子夫婦であった。父は、後妻にも子どもにも親にも誰にも遺言は残さなかった。
 
64 それからどのようにして父の遺体を引き取り、通夜や葬式の準備をどのようにしたのかまったく忘れているが、宿屋町の自宅の一階で葬儀が行われたのは覚えている。そのときに参列してくれた方の顔や、何処の火葬場に行ったのかもまったく記憶を失念しているがそれだけショックが大きかったからかも知れない。
 
65 泰介は、葬儀(通夜、葬儀、骨揚げ、初七日)の光景を次のように覚えている。
  
66 葬儀は宿屋町の自宅貸家で行われた。畳の部屋の奥に父の遺体を安置してその前に遺族が座り、道路際の三畳の板の間に焼香台が置かれて参拝者が順番に玄関から入室して出て行った。部屋の壁をぐるりと囲んで白黒のカーテンが張られていた。
 
67 その葬儀の席に、宇一伯父と地域の顔役の佐治先生とが並んで座って話していたが、何やら遺族は今後どう暮らして行く積もりなのかという内容の話のようだった。佐治先生は堺で小学校の校長も務められた方で、稲本家の伯父が教員を務めていたり、同じ堺の町屋に住む町衆として稲本家とも懇意であって、泰介が小学生の頃には佐治先生の自宅に従兄弟の稲本の治朗ちゃんといっしょに通って習字を習っていた。また、母が自宅で死去した時に新聞沙汰になりそうなところを新聞社に掛け合って記事を消してくれたこともあった。その佐治先生は後日、後妻宅を訪ねてくれて、今後の生活を心配してくれたらしい(※関西人の性分で他人のことでも放って置けないお節介な親切であったが、後になって後妻はこの訪問を堕胎を勧めに来たと言って、濱保家につながる人間は冷たいと回想している。佐治先生がどういう話をしたのかは不明であるが、まさか他人に堕胎を勧めるような非常識なことは言わないはずだし、東京人と違って関西人は何もお節介しない方が逆に冷たいのである。尚、佐治先生は濱保家と繋がるような懇意な関係ではない)。
 
68 泰介は、後妻の親戚の方々にはそれまで誰にも会ったことがなかったが、宮崎から来られた後妻の甥の木島様とお会いして、労働運動とか資本論について泰介と話しが合って楽しく歓談したが、またお会いすることがあると思っていたがその機会は訪れなかった。
 
69 質屋の逵さんは、宿屋町の自宅から三軒隣で民生委員もしていたと思うが、娘さんが晃夫か壽之の同学年だったので父とは錦小学校のPTAの役員時代(※父はPTAの会計をしていた)から懇意で、宿屋町の貸家を紹介してもらったのも逵さんだし、その他いろいろ暮らしの世話をしてもらっていたので、多分父の葬儀の時にも逵さんが色々世話してくれたと思う。また、父の再婚夫婦の普段の暮らしぶりに就いても一番よく知っているのも逵さんだったと思う。
 
70 高田の叔父は、葬儀の途中だったが、宿屋町の家の向かいに在るたこ焼き屋の前で、後妻にこんなことを言われたよと言って大変しょげていた。(※これは病室で父から事業を畳むことを依頼された叔父が、後妻は事業の行き詰まりのことを当然光男から聞いて知っているものと思って、会社清算のことを聞かれもしないうちに説明しようとしたところ反撃されて逆ねじを食わされたものと思われる)。以後叔父はこの件から手を引いてしまったが、この話は荘平叔父から宇一伯父に伝えられたので、伯父はこの分だと後妻に光男の遺産の内容を説明しても理解してもらうのは相当困難だと考えて、その後は遺族のために伯父の資産を供与するのみに専念したようだ。そして、後妻親子の暮らしが成り立つ為に、先妻の子どもたちを説得して子どもたちが相続する現金を全部後妻親子に譲るよう差配した。それは伯父は光男を深く慈しんでいたので、後妻親子の生活を守ることが光男に対する供養だと考えたからであろう。伯父は光男の相続財産について良く知っていたので、光男の相続財産が無いために遺族が生活できないことを黙って見過ごす訳には行かなかったのである。宇一伯父は、光男の相続手続を遺族に代わって完璧に済ませてくれたが、それでも、伯父の差配によって、三人の子どもたちの現金遺産はすべて後妻親子に譲らせて辛抱させたことを大変申し訳なく思っていると後に泰介に語った。
 
71 喪主は後妻であったが、香典の整理とか香典返しとかの実務作業は、葬儀の後になって泰介が後妻と一緒に宿屋町自宅の和室の座卓の上で行った。
 
72 泰介は、葬儀後に宿屋町で実務作業をしているときに後妻が実家の誰かと電話していて「子どもたちは純粋なのよ。悪くないのよ」という声が聞こえたが、それは光男の遺産相続について濱保家と有竹家の間で何か分からないが対立があるらしいと思わせるような言い方だった(※相続手続後にこの言葉の訳が分かった)。
 
73 泰介は、葬儀後の事務作業を終えたのは何日後のことか覚えていないが、その後に、泰介が相続申告中に後妻宅に訪れたことはなかった。
 
74 泰介が、葬儀後に宿屋町の家を訪ねたのは、泰介が結婚した後で昭和52~53年頃で何の目的で帰ったのか覚えていないが、泰介夫婦と一歳前の長男との三人連れで訪ねて後妻宅で英樹と初めて会った。英樹は居間に置いた滑り台で遊んでいて泰介の息子博光を「ひろみっちゃん」と呼んでくれた。その時はそれまで同じ家屋に住んでいた壽之は既に結婚して転出していた。しかし後に英樹が語ったところによると、後妻は英樹には兄弟は居ない一人息子だと言って育てたそうである。
 
75 父の法事は、葬儀後の四十九日、一周忌(1974年)、三回忌(1975年)、七回忌(1979年)、十三回忌(1985年)と続くはずだが、それらは後妻によって営なまれたのだろうか(不明)。或いは泰介は呼ばれなかったのかも知れない。
 
76 泰介は、父の七回忌(1979年)を期して、超元寺の檀家総代をしていた稲本家の力を借り、特に稲本の道治伯父が色々と世話をしてくれて超元寺の墓地に濱保家の墓を建てた。父の遺骨はその時に墓に埋葬された筈だが泰介は納骨式に参加していないが誰が式を手配してくれたのだろうか(不明)。またその後に府中に八年間埋葬されていた母の遺骨を運んで来て改葬した筈だが、泰介はこの遺骨の運搬や改葬手続もしていないが誰が世話してくれたのだろうか(不明)。
 
77 後妻は、父が墓に埋葬された後に、家の斜め向かいに在る超元寺の墓地に行って父の墓(※父と先妻が葬られている)に参ってくれていたのだろうか(不明)。
 
78 宇一伯父の計らいで、父の三十三回忌は2005年8月7日に超元寺で弔い上げの法要の後、堺東の楓林閣で宴が持たれた。参加者は、宇一、泰介、晃夫夫婦と姪・甥、壽之夫婦と姪・甥、高田家夫婦、その長女の昌子夫婦と次男の國夫、稲本家の絹子伯母であった。後妻は1991年3月に死去しており、道治伯父は2003年に逝去のため参加していない。また当時高校生だった英樹の居所は不明であった。
 
79 宇一伯父は、父の三十三回忌の後、二年に満たず、2007年に亡くなった。宇一伯父は死ぬまで、父の遺産相続に際して行った伯父の土地贈与については何も語らなかった。泰介は、宇一伯父が入院した時に、毎週新幹線で横浜から新大阪を往復して毎日北野田の家から病院に通って門限まで付き添ったが、それはこれまで長年、子として育ててもらった恩返しに、伯父にして差し上げられるせめてもの恩返しであった。それが叶ってか、宇一伯父の臨終に立ち会えたのは泰介独りであった。泰介が病室に付き添っていた間、伯父は意識が混濁する時もあったが、正常な時にも自分の相続や死後の祭祀のことは何も語らなかった。また以前、父の相続時には三人の子どもたちに現金遺産を残してあげられず辛抱させたので、伯父の相続時には、三人の子どもたちに幾分かを贈与する積もりであることを泰介に明かしていたが、伯父は何も語らずに逝ってしまったがそれには伯父には考えがあったのだろう。贈与の件は伯父の好意なので一向に構わないが、宇一の家督を相続したならば、濱保家総領であった宇一が有していた府中の松村家・濱保家の祭祀権も相続したことになるので、宇一に代わり府中の墓地管理や祖父・祖母の法事を実施することになる。因みに、本年(2023年)は祖父栄三郎と祖母アキの五十回忌に当たるので、以前から元子叔母とともに府中で祖父母の法事を行い、府中の由緒ある料亭「恋しき」で宴を開くことを楽しみに計画していたが、元子叔母はその日が来る前に亡くなってしまった。従来は濱保家の最年長者である泰介が、自ら松村家・濱保家の祭祀の役目を買って出る積もりだったが、濱保家の総領が壽之と決まった以上、泰介が無断で祭祀権を取り仕切る訳には行かない。美恵子伯母の思い出では、美恵子伯母は常々、元子叔母より一日でも遅く死ぬのが願いだと泰介に話していたが、もしもの場合には、泰介に光男・好子の墓にいっしょに入れて欲しいと頼んでいた。しかし、そのようには出来ず大変申し訳ないと思っているが、壽之が宇一伯父と養子縁組があっても、美恵子伯母とは養子縁組が無いので親子関係にはなく、泰介が美恵子伯母を祀っても問題はない。更に、元子叔母が言うように、宇一伯父は郷里府中を兄弟姉妹で一番愛していたので、ゆくゆくは宇一伯父の遺骨は故郷府中の墓地に埋葬して里帰りさせてやりたいと思っているが、果たして宇一伯父は郷里府中と商都大阪とどちらに葬られることを望むのだろうか。
 
80 泰介は、その後、2017年に大阪に帰った時に、父の会社の商業登記簿を調査したが、既に会社の閉鎖後50年を過ぎていたので、法務局では謄本はすべて廃棄された後であった。また、会社の土地の不動産閉鎖謄本は取得できたので取得してみたら、土地の所有権者は宇一伯父であったことに気が付いて大変驚いた。
 
81 宇一伯父は、自分の名義である都島の土地を、弁護士を使って光男の相続財産として認めさせた上で、そこから光男の負の遺産である借金を返して、更に会社の社員への退職金に充てた上で、残りを遺族の相続金に回したのだった。宇一伯父のお陰で、遺族全員は、相続後に払わなければならなかった債務の返済から免れた。前妻の三人の子どもたちは、宇一伯父の差配により現金遺産はすべて後妻親子に譲ったので得られなかったが、処分が難しい川原町と錦之町の総額で約300万円評価額の不動産遺産を相続し、後妻親子は約2000万円の現金遺産を相続した。
 
82 泰介は、それまでに何度もこの宇一名義の土地の事実を記した書類は見ていたので、そのことに早く気付く機会があったはずなのに、この時まで、当然光男名義の土地だろうという強い思い込みがあった為に事実が見えなかったのである。その調査の後に、直ぐ神戸の元子叔母の家に行って調査の結果を驚きのまま伝えたが、叔母はきょとんとして何も知らなかったようだった。因みに、晃夫も泰介が最近のメールで教えるまでこの事実を知らなかった。
 
83 その後、神戸の元子叔母も府中の和子叔母も順に他界し、親戚には誰一人も光男の過去を知る者も伝える者も居なくなってしまった。
 
南無阿弥陀仏。合掌。(終)